日本最古の公立公園の一つ浜寺公園
明治6年に太政官令が布告され、公立の公園が開設されることになりました。
明治6年太政官布告第16号
『三府ヲ始、人民輻輳ノ地ニシテ、古来ノ勝区名人ノ旧跡地等是迄群集遊観ノ場所 {東京ニ於テハ金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社、清水ノ境内、嵐山ノ類、総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類} 従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシ、公園ト可被相定ニ付、府県ニ於テ右地所ヲ択ヒ、其景況巨細取調、図面相添ヘ大蔵省ヘ伺出ヘシ』
これを受けて、この年には全国で24公園が届け出を受けて指定されました。さらに、明治20年までに82公園が指定されています。大阪府では住吉公園と浜寺公園が明治6年に指定されています。
浜寺の浜辺は古くから高師浜(たかしのはま)と呼ばれた景勝地でした。 現在公園になっているところは、南北約2500m、東西430m、面積75.1ヘクタールですが、高師浜の景勝地と呼ばれている場所はもっと広範囲に拡がった海岸一帯を指していたのではないかと思います。
紀貫之の土佐日記には、
『五日。今日、からくして和泉の灘より小津の泊まりを追う。 松原、目もはるばるなり。 これかれ苦しければ、詠める歌、
「ゆけどなおゆきやられぬは妹がうむをづの浦なる岸の松原 」
・・・といひて、行く間に、石津という所の松原おもしろくて、浜辺遠し。』という一節があります。
国司として土佐に赴任していた紀貫之が、京にもどる船旅を著したのが土佐日記ですが、その中で、大津から石津、住吉を通り難波に出て京に上る旅日記を、男もすなる日記というものを女もしてみんとてするなり、という書き出しで著しています。
小津の泊まりが今の泉大津かどうかは疑念もあるようですが、高師浜の松原を海の上から眺めたのがこのくだりに違いありません。街道筋を通ってここに来た紀貫之が詠んだ歌としては、 「沖つ波 たかしの浜の 浜松の 名にこそ君を待ちわたりつれ」という歌が古今集に入っています。
手軽に地図が手に入る時代ではありませんから、船上でここがあの高師浜だということは紀貫之の念頭にはなかったかも知れません。飽き飽きするほど続いている松原も石津あたりでは美しいと褒めています。 昔は沖合から松原を眺める機会はあまりなかったのですが、沖合が埋め立てられてからは、公園の方を眺めることが出来るようになりました。
万葉集や古今集の時代から1000年ほど後の明治6年に、大久保利通が堺県令税所篤の案内で高師浜を見物に来ました。 多くの和歌に詠まれている高師浜の松原を見物する利通の目に地元の人たちがその松原を切り拓いている姿が映りました。
利通卿がこれは何事かと尋ね、税所篤が士族の生活の糧にと払い下げて開墾していると答えました。 大久保利通はそれはけしからんことだ、このような名所の松を切り拓くとは情けない仕業だと叱りつけました。
その時、大久保利通は、祐子内親王家紀伊の「音にきく高師の浜のはまのあだ波はかけじや袖のぬれもこすすれ」というよく知られた和歌を本歌取りして、懐紙を取り出して「音にきく高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり」 という歌を書き示しました。
その時、税所篤は「いかんせん高嶺おろしの烈しさになみだふるひしをののえそこれ」という歌を詠み、松の伐採をやめさせました。 また、その年の12月に、堺県からの願い出により、この場所が浜寺公園という名前で公立公園に指定されました。
当時の公園の敷地の範囲は正確には不明ですが、東は紀州街道に面していました。西は、言うまでも無く、白砂青松の浜辺です。北は、現在の浜寺諏訪森町西5丁の所までが公園区域になっていました。
南は現在の南端の芦田川北岸までだったはずです。現在は公園の南部では国道204号線沿いに住宅などが建っていますが、この公園が開園したときにはこのあたりも公園の区域になっていたかも知れません。
交通アクセスの変遷
その昔、都人が訪れて高師の浜の景勝を眺めた頃は、多分、熊野詣の途中に浜辺へと足を伸ばしたのだろうと思います。浜辺から2kmほど東に熊野街道が通っています。 後世になると紀州街道が拓けて、住吉神社の前を通り堺から紀州に向かう道を辿ると、このあたりは右手に高師の浜の松林が拡がっていたのです。
明治になって公園が出来ても、紀州街道はそれほど往来が多い街道ではありませんでした。 公園のあたりは松林の中を街道が通るようなところで、夜になると人通りもなく、追いはぎが出るところと言われていました。
しかし、明治30年になると南海鉄道が難波から和歌山市まで開通して、浜寺に停車場が開設されました。 その頃から少しずつ公園を訪れる人が増え、また、公園の中には料亭が出来て人の往来が増えてきました。料亭の周辺には別荘が出来て、大阪市内に住んで居る富裕層が保養地として訪れるようになりました。
明治37年に日露戦争が勃発し、翌年には大勢の捕虜が高石の海岸近くに出来た収容所に連れてこられました。大勢の物見高い人たちがそれを見にやってきました。また、明治39年の夏から浜寺海水浴場が開設されて公園が賑わいました。
そのようなことで、浜寺停車場の乗降客が増えたので、南海鉄道は明治40年に難波浜寺間を複線電化し、また、それを契機に浜寺停車場の駅舎を建て替えました。駅の名前も浜寺公園駅と名付けました。
他方、明治45年に阪堺電気軌道が恵美須町から浜寺までの路線を開通させて運行を開始しました。さらに、大正12年に阪堺電気軌道株式会社が芦原橋から浜寺駅前までの軌道線を開設しました。
その他に、昭和4年になると、阪和電気鉄道(現JR西日本、阪和線)が 鳳駅から南海本線羽衣駅のところに支線を伸ばし、阪和浜寺駅を開業しました。それだけではなく、昭和30年代には大阪市営地下鉄の四つ橋線を浜寺まで延長する計画もありましたが、これは現在立ち消えになっています。
このように、浜寺公園へのアクセスを多様化する施策がいろいろと実現しましたが、昭和30年代に大阪湾岸の埋め立てによる臨海工業地の建設が進められたので、海水浴場が閉鎖されたり、その代わりに設備された大プール群の人気も娯楽施設の多様化で下火になってきました。
それにも増して、自動車交通の増加が大衆のアクセスの形態を大きく変えて、鉄道輸送からマイカーにアクセスの手段が変わってしまいました。
公園の役割
太政官令で公園が出来たときの公園の役割は、『群集遊観ノ場所、万人偕楽ノ地』という触れ込みでした。 現在の浜寺公園は近隣の住民のリクリエーションの場であり、散歩をする人やジョッギングをする人に快適な空間を提供しています。
またスポーツ・グラウンドやテニスコートなどの施設が手近で利用できるという便利さがあります。 その一方で、プールのように維持管理の経費が嵩む設備は、十分な保守を継続することが困難なっています。 そこには、収益を得ながら市民に安価な便益を提供するという難しい手段の選択が求められています。